何か投資をしようと思われた時に、証券会社を調べてみると、たくさんあることに気づきます。これら証券会社の特徴を把握した上で、利用するか否かを判断しましょう。
昭和初期の清算取引の比重は、どの年も九〇%前後です。
つまり逆に言えば、現実に株の欲しい人、株を売りたい人の商いは、全体の1割にすぎなかったということになります。
このような投機的な売買は、株式市場にとってある程度は必要なのですが、90%前後も投機売買ということになると、これは明らかに行きすぎです。
株式市場というものは、企業に資金を供給するためにあります。
このような投機的売買だけで成立した市場は、企業に資金を供給することが困難になります。
つまり、大正から昭和十年代までの8本の株式市場は自分自身の役割をともすれば放棄しがちであった、と言っても過言ではありません。
そして、日本の株式市場はこうした践行の状態のまま昭和十二年の日中戦争から第二次大戦へと巻き込まれていったのです。
統制経済、そして国家総動員法と、日本経済全体をしぼりつけるきびしい環境が生まれました。
昭和十八年七月、全国十一の株式取引所を一つにまとめ、半官半民の日本証券取引所というものを政府が作り上げたのも、崩壊寸前の証券市場にテコ入れしようというねらいだったのです。
昭和二十年八月十五日、日本は連合軍に無条件降服しました。
しかし取引所の方はその五日前に、ソ連邦が日本に突然宣戦布告してきたショックで閉鎖してしまいました。
以後、昭和二十四年五月十四日までの三年九ヵ月間は、取引所は閉ざされたままでした。
もちろん日本側はこの間にもなんとか取引所を再開しようという努力をしました。
また正式の取引所は閉鎖されていても、他の場所で細、と、非公式ながら集団的な株式売買が降服の年の十一月ごろから始まり、二十二、三年ごろにはかなりの売買量に達していました。
しかし占領軍(特に米国)の考えは、戦前の日本の株式市場が余りにも投機的であったから、昔のままの市場再開は認められないという点に大きなウエートがありました。
占領軍の行政は日本に大きな変革を生じさせました。
財閥解体、農地改革をはじめとする革命的な行政が実施されているときに、証券界だけが戦前通りのはずがありません。
占領軍の示した「取引所再開三原則」を証券界が受諾して初めて正規の取引所売買が認められるようになりました。
そして戦後の証券界を戦前のそれと全く様相を変えさせたものは、前記三原則のうちの一つだったのです。
それは清算取引を認めないという一項目です。
戦前の株式売買の90%前後を占めていた清算取引が認められないということは、戦前の売買方法を全く否定するわけであり、年間売買は5〜12月の合計1部・2部合計だけであり、一種の革命だったのです。
証券界にとってこの清算取引の廃止が、直接的な影響としては最大のものでしたが、経済環境の変化も決して軽視できない重要な意味がありました。
前述の財閥解体は、財閥が大量に持っていた株を一般大衆が肩代わりすることによって、株主の範囲が拡大し、したがって証券市場に広がりが生まれ、その後の発展、急膨張に大きな役割を果たしたのです。
またこの財閥解体のほかに企業の集中排除も行われた結果、これまで親会社(財閥)におんぶしていればよかった会社、また大会社から一挙に三分の一、十分の一の小会社へと分割されてしまった会社などは、少なからぬ資金を証券市場に求めざるをえなくなりました。
つまりその分だけ証券界の地位が向上したと言えます。
それはとにかくとして、証券界の人、の努力が実り、昭和二十四年五月十四日、東京、大阪、名古屋の三ヵ所で、証券取引所が再開されました。
続いて七月二日には神戸、広島、福岡、新潟の五ヵ所に、最後の翌年の五月三十日に札幌と、合計九ヵ所で証券取引所が設立されました。
フランスのパリ株式取引所は一七二六年に、ついでイギリスのロンドン株式取引所が一七七三年にそれぞれ誕生しました。
もっとも公債とか地方債などの株式でない有価証券の市場はこれよりも前にできていたようです。
それは戦争の連続、新大陸と東方貿易への投資熱などによるものです。
戦争は十六世紀から十八世紀までに続けざまに起こり、フランス、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、スペイン、イギリスなどの諸国の財政が窮屈になり、従軍した貴族、将軍のふところを寂しくしたため、公債や地方債が盛んに発行されたのです。
また十五世紀末に発見された新大陸アメリカへの植民と投資、アジア地方との貿易に対する投資も盛んに行われ、この資金を得るためにも公債などが発行されました。
こういったわけで、株式取引所ができる前に債券市場があったのですが、オランダの東インド会社ができてからは、株式会社という形による資金集めがはやり出しました。
たまたま打ち続く戦争で、イギリスは出せるだけの公債は出し尽くしてしまいましたので、当時世界の宝庫といわれていた南アメリカを利用することになりました。
つまり南アメリカで貿易する権利や、その他の権利を全部持つ「南海会社」という資本金一千万ポンドの会社をつくりました。
そして当時政府が始末に困っていた約一千万ポンドの公債でこの株式を払い込みましたから、政府は荷が軽くなった一方、株主も南海会社に信用をおいて、その後の増資も非常に順調にいったどころか、この株の値段が十倍ぐらいになりました。
これに刺激されて鉱山会社、造船会社、海運会社などの株式会社がぞくぞくとできて、これに投資する人が急速にふえ、株式会社への投資熱がしだいに高まってきました。
しかしこうした結果は明らかです。
まもなく基礎の弱い会社がぞくぞくと倒産し、株式は五分の一、十分の一の値段になってしまいました。
一七二〇年にはヨーロッパに最初の恐慌が起こり、ヨーロッパの経済界は大混乱となりました。
このような事態にぶつかって懲りたイギリス政府は、泡沫会社法(つまり泡のように基礎のない、いい加減な会社を取り締まる法律)を出したりしましたが、一七七三年にはロンドン株式取引所をつくって、ひどい投機を取り締まることにしました。
フランスでもこれより早く一七二六年にパリ株式取引所をつくったのです。
あとで説明するように日本の株式取引所が株式会社を育て、発展させるためにつくられたのに比べて、ヨーロッパの株式取引所は投機を押えるためにつくられた点に大きな相違があります。
戦前の日本の株式取引所は、イギリスやフランスの取引所に見習ったところが多かったようですが、戦後の証券取引所はアメリカの株式取引所をまねた部分がかなり多いのです。
現在のように大規摸なニューヨーク株式取引所は、一八六五年(明治維新は一八六八年)に生まれ、百年余の歴史を持っています。
しかし小規模のもの、あまり組織化されていないものはもっと前からありました。
独立戦争(一七七五−八三年)が終わってから十年もたたないうちに最初の合衆国国立銀行が設立されましたが、この銀行の株式が一般に募集されたため、アメリカ公債や、国立銀行以前にできていた北米銀行(フィラデルフィア)の株式とともに、売買市場が必要になりました。
そこで十人ほどの人が一般の人、のために売買を取り次ぐ仕事を始めました。
しかしなにぶんにも初めての仕事ですし、十人ぐらいの人たちだったので適当な建物を使うことをせず、ニューヨークのウォール街にあったスズカケの木の下に集まって売買をしていました。
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